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荻野正二(バレーボール) 16年ぶりの五輪、幸せ

2008年7月8日

  • 筆者 内村有美

写真「昔は電車に乗ると『大きな人』としか思われなかったのに、最近は『あっ、荻野だ!』って気づかれますね」=小玉重隆撮影

 16年ぶりに五輪出場を決めた男子バレー。7年ぶりに全日本へ呼び戻された38歳の主将は、日の丸をつけた最後の戦いに臨みます。

   ◇

 ――五輪出場おめでとうございます。植田監督と長い時間、抱き合っていましたよね。

 15秒ぐらい思い切り抱き合ってましたね。女の人やったら死ぬんちゃうかっていうぐらい、ムギュッと。僕は大泣きしてたから、監督のスーツもびちょびちょだったと思います。

 ――すごいですね……。

 監督もプレッシャーがあったはずですから。僕を(全日本に)選んだことで、いろんな人から「もう年なんだから無理じゃない」「何であいつを選ぶんだ」とか言われて、罵声(ばせい)も浴びたと思うんですよ。それでも、みんなの前で「お前を選ぶ」って言ってくれたんで、この人を男にせなあかんと思って。

●やり残したこと

 ――日本男子は3大会連続で五輪とは無縁でしたから。

 男子バレーを低迷させたのは、アトランタ五輪予選で敗退した僕らなんです。まだやり残したことがあると思っていたから、植田監督から声をかけられたときは正直うれしかった。でも、キャプテンになることは一度断りましたけど。

 ――それは何でですか?

 若手と年の差もあるし、今の子は難しいし、どうやってまとめればいいんやろ、という不安があった。それでも監督から「一緒に北京を目指してくれ」って言われたら、「分かりました」と言うしかないでしょ。

 ――05年に全日本へ戻ったとき、チームはどうでしたか。

 監督も「これじゃ駄目だ」と思って改革しましたよね。あまりの厳しさに、初めは僕もビックリしましたよ。「これ、えっ、自衛隊?」って。

 ――え?

 練習前には大きな男が整列して「気をつけ、お願いします」だし、練習中はトイレに行けないし、酒は飲んじゃ駄目とか言われるし。何でそこまでせなあかんのと思いましたよ。

 ――練習メニューも若い選手と同じで厳しかったとか。

 そういう特別扱いをしてくれない監督なので。汚い話ですけど、38歳で初めてもどしましたね。体育館のトイレに行って。

 ――そんなつらい思いをしても辞めなかったんですから、すごいです。

 一度だけ考えたことはありましたよ。昨年のワールドカップが終わった後の北海道合宿で。モチベーションが上がらんし、つらいし、監督の部屋をノックしようか、どうしようか毎晩のように葛藤(かっとう)してました。

●野球からの転向

 ――あきらめないということが大事なんですね。

 高校1年で始めたときには考えられんことですよ。

 ――バレーを始めたのは高校に入ってからなんですか。

 中学まで野球をしてたんですけど、192センチあったので。

 ――中学生で……。お父様もお母様も背が高いとか。

 そんなに大きくないですよ。おやじは170センチないし、おふくろも160センチないし。ただ、ばあちゃんがでかかったと思います。腰がちょっと曲がってたけど、ググッと伸ばすと大きかったような印象があります。

 ――野球からバレーになって、戸惑いませんでしたか。

 最初はやる気がなかったし、3年間で辞めようと思ってました。でも、他校で2歳上に中垣内祐一さん(現・堺ブレイザーズ監督)がいて、福井大会で初めて見たときに「うわっ、すげえ跳ぶわ。この人みたいになりたい」と思ったんです。中垣内さんを目標に頑張りましたね。

 ――たった3年間の経験で卒業後、サントリーに入るわけじゃないですか。ものすごい過酷な選択だと思うんです。

 何でこんなとこに入ったんやろと思いましたよ。サーブレシーブは全然返らんし、スパイク打っても10本打ったら10本ブロックされる。かなりへこみました。毎日が一生懸命で、人の倍は練習しましたね。

 ――ケガも乗り越えて、ここまでたどり着いたんですから。

 しつこ過ぎるでしょ。でも、両ひざを手術した28歳のときに、本当はバレーが終わった人間なんですよ、僕は。それなのに22歳でバルセロナ五輪に行って、16年後にまた行ける。僕のバレー人生、こんなに幸せでええんやろかと思いますね。

 ――北京五輪が楽しみです。

 出場を決めたとき、監督はうつぶせに倒れましたよね。北京でメダルを取ったら、うつぶせの次は何するんかなと思うんやけど。それも楽しみなんです。

     *

 おぎの・まさじ 福井工大福井高からサントリーへ。89年世界ジュニアで銀メダル、92年バルセロナ五輪では6位入賞に貢献した。両ひざを手術した98年を最後に全日本から離れていたが、05年に再び全日本入り。197センチ、98キロ。

写真

 〈有美のここだけの話〉

 私が中学生になりたての頃、必死でテレビ観戦していたバレーボール。当時、荻野選手は19歳。最も若い全日本の選手としてコートを駆け巡っていました。あれから19年。荻野選手は今もなお、コートを思いっきり走って、声を出して、最高のガッツポーズを見せていました。

 荻野選手は、その大きな肩に、自身の長い歴史を背負っているような、優しい雰囲気の方でした。インタビューの時にはたくさん話してくれるけど、きっと普段はそんなに口数の多い方ではないのだろうなぁと思いました。実際、後輩の選手とも、そんなに積極的に話すほうではないそうです。口でとやかく言うよりも、その後ろ姿、背中で語りかける人だと思います。

 荻野選手は今の全日本のなかで、唯一、五輪を知る選手です。これまでの自分の歴史、男子バレー界の歴史をわかって、すべてをのみ込んで練習に打ち込む38歳のひたむきな姿は、10代、20代の選手たちのなかでは、きっと異彩を放っていたことでしょうし、重みのある存在であったことは間違いないと思います。

 インタビューの途中、「おれってしつこいでしょ?」と言われ、私なんぞが思わず、あきらめずにしがみつくことの格好よさを熱く語ってしまいました。だって本当に、自分の心や身体に対してしぶとい人って素敵だと思いますから……。

 こうして北京五輪出場を決めて、華々しい今だからこそ、振り返ってみるとすべてが報われたという気持ちになるのかもしれませんが、実際に荻野選手が歩んできた、ここまでの長い長い……果てしなく長い道のり。自分のやっていることが正しいのかどうなのか、果たして成功につながるのかどうなのかも一切わからないまま、挑戦という時間を積み上げてきた精神力の強さは私の想像をはるかに超えるものです。

 五輪出場が決まった瞬間、コートをガッツポーズで走り回りながら「もう、おれのバレー人生、本当に幸せやなと思いました。こんな幸せでええんやろうか」と思っていたそうです。彼にしかわからない苦しみ、彼にしかわからない幸せ。一筋縄では語れないバレー人生。だからこそ、荻野選手にはすべてがつまっています。

 あの大きな身体で熟成された強さ、根性、歴史、怒り、情熱、優しさ。それらが、何を語らずともにじみ出ている荻野選手の姿に心から尊敬の念を抱きました。

 荻野選手にとって最後の五輪。彼が、これまでのバレー人生のすべてをかける五輪。初戦は8月10日。応援しています。

プロフィール

内村 有美(うちむら・ゆみ)

元テレビ朝日アナウンサー。主にスポーツを担当し、01年世界水泳福岡大会や02年ソルトレーク冬季五輪などを取材。高校時代は陸上の走り幅跳び選手で、実際にシンクロやスケルトンにも挑戦する体当たりのリポートで人気を集めた。05年に退社。夫はタレントの内村光良さん。旧姓徳永。75年金沢市生まれ。

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